1:ディクソンの挨拶

人類最初の動画


今回は「人類最初の動画≒映画作品」と呼ばれている「ディクソンの挨拶」が、どのような経緯で生まれたかについて書いていく。

動画誕生への課題

人類は、「連続した絵を1秒に何枚も続けて見せられると、その絵が動いて見える」という現象を、割と古くから知っていた。子供の頃、ノートにパラパラ漫画を描いたり、見して貰った経験がある人は多いだろう。

こういったパラパラ漫画と同じ原理で、写真を連写して、その写真を連続で見る事で、「動く写真」すなわち「動画」を作ろうと試みた人たちは世界中に同時期に存在した。その為には、写真を高速で連写する仕組みと、それを撮影時と同じスピードで見れるようにする仕組みが必要だったが、まだ技術的に大きな問題が3つ存在した。

一つ目が、露光時間とシャッタースピードの問題である。以前も書いたように、最初期の写真は、記録媒体に像を定着させるのに何時間もかかった。時代とともに徐々に改善はされていったものの、写真を動いて見えるようにするには、一秒間に何十枚もの写真を連写する必要がある。仮に、現在の映画と同じ、一秒間に24枚の写真を用いて動画を作った場合、最低でもシャッタースピードが1/24秒でないと、次の写真を撮るまでに、その前の写真が撮り終わってないという自体が発生してしまう。

二つ目が、写真の記録媒体の問題である。これも以前書いたが、初期の頃の写真は銅板やガラス板を記録媒体として用いていた。もし、これらを用いて一秒間に何十枚もの写真を撮った場合、当然だが、一秒間の動画を作るためだけに、銅板やガラス板が何十枚も必要になってしまう。この場合、記録媒体を作る材料の問題だけでなく、保管方法についても困難が生じ、現代のような2時間の映画を作ることは不可能に近いだろう。

三つ目が、その写真をどうやって連続して見せるか?という問題である。仮にパラパラ漫画の要領で写真を動かそうとしても、硬い銅板やガラス板でそれを再現することは不可能だ。また仮に、柔らかい記録媒体に写真を定着させることに成功したとしても、その動画を何時間も連続して見せるにはさらに工夫が必要になる。

「動く写真」の開発には、こういった幾つもの技術的な問題があったのだが、この3つの問題を一撃で解決してしまった人物がいた。それがニューヨークのジョージ・イーストマン率いる、現在のイーストマン・コダック社だった。

イーストマン・コダックとフィルムの誕生

ダゲレオタイプやカロタイプといった写真撮影法が発明された後も、写真の改良は続いていた。その中でも、「写真の大衆化」という点においては、ニューヨークのイーストマン・コダック社の貢献が最も大きかった。

1870年、アメリカのジョン・ウェズリー・ハイアットによって実用化された、世界初の高分子プラスチックであるセルロイドは、文明社会に大きな影響を与えた。初めは象牙の代用品として使われたセルロイドだったが、安価で加工がしやすく弾力性にも耐久性にも優れていた為、産業革命後の大量消費社会において、すぐさま必要不可欠な存在となった。

1880年代後半、ジョージ・イーストマンはセルロイドを写真の記録媒体として、商品化することに成功する。これが写真フィルムの誕生である。それ以前、写真は銅板やガラス板といった硬い板に記録して置く他なく、これでは写真を大量に撮るのも、保管するのも一苦労だった。

1888年、イーストマン社はコダックという商標の使用を開始し、世界初のフィルムカメラを発売した。技術だけでなく商売も上手かったイーストマン社は、「あなたがシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります(”You press the button, we do the rest”)」という宣伝文句と共に、一躍有名となった。「写真屋さんへ行って写真を撮ってもらう」という選択肢しか無かった時代に、イーストマン社は、「カメラを買って写真を撮った後に、10ドル払ってイーストマン社にカメラを送り返しさえすれば、印刷された写真と共に、新しいフィルムが装填されたカメラが返却される」と言う、ビジネスモデルまで構築してしまったのである。

これにより、それまでは特定の技術者しか撮影できなかった「写真」が、一般大衆にまで広がるようになった。

※1 最初の写真用フィルム


出典:https://www.eastman.org/two-rare-rolls-early-kodak-film-acquired-george-eastman-museum

そんな普及していたイーストマン・コダック社のフィルムカメラを見て、ある事を思いついた人物がいる。それがジョージ・イーストマンと時を同じくして、ニューヨークで働いていた、発明王トーマス・エジソンだった。

エジソンの生涯

1847年、アメリカ・オハイオ州に生まれたトーマス・エジソンは知的好奇心旺盛な性格が災いし、教師と上手くいかず、小学校を3ヶ月で辞めてしまう。よってエジソンは自宅で本を大量に読むことで自習していた。その後原因は諸説あるが、12歳の時に難聴を患う。こうして、他者との会話が難しくなったエジソンは、より一層本の世界に没頭するようになるになる。

1863年、電信網がアメリカ西海岸に到達してから二年後のある日、当時15歳のエジソンは鉄道電信士の見習いとして働き始める。電信士見習いの職場には、様々な当時最先端の機器が転がっていた。エジソンはこれらの機器を使って、空いた時間に実験を行うようになる。

1867年、イギリスで科学者ファラデーが亡くなった年、20歳のエジソンはファラデーの著書『ロウソクの科学』を手に取る。この本は以後、彼のバイブルとなった。学校に通わず、数学が得意でなかったエジソンにとって、同じく学校へ通っておらず数学が苦手だったファラデーが綴った、数式を用いずに科学を平易に語る文体は、非常に親しみやすいものだった。

1869年、アメリカ大陸横断鉄道が開通した頃、エジソンは自身初の特許である、電気投票記録機に関する特許を取得する。以降は会社を立ち上げ、フリーランスの発明家としての道を歩み始めたエジソンは、かつて自身が電信士だった頃の経験を活かし、1872年にはタイプライターと電信機を接続する事に成功する。これにより、それまで直接モールス信号を打って電信していた手間が省け、タイプライターを打つだけで、文章をやり取りすることが可能になる。さらに1874年には、一つの回線で同じ方向に同時に2つの情報を送れる「ダイプレックス通信」と、双方向で異なる情報を同時に送れる「デュープレックス通信」を組み合わせ、四重通信の特許を取得する。こうしてエジソンは、発明と特許の取得を次々と繰り返し、まるで電信に関する特許を独占するかのような勢いだった。

しかし、そんなエジソンも、音声を電気信号に変換し、遠距離での会話を可能にする「電話」の発明では、1876年にグラハム・ベルに先を越されてしまう。これには、エジソンの耳が不自由だったことも原因の一つだったと考えられている。その代わりと言っては何だが、翌年の1877年、エジソンは音を記録しておく機械、蓄音機(レコード)の発明をする。

※2 エジソンの蓄音機

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/Category%3AEdison_phonographs

「必要は発明の母」という言葉があるが、蓄音機はその言葉に反するかのように、必要もないのに生まれた。現代において録音技術は音楽や、会話を記録しておく為に用いられたりするが、大きくて邪魔な割に音質が悪く、しかも高価な蓄音機を、当時の大衆は重宝しなかった。よって蓄音機が発明された後も、引き続き音楽の記録は楽譜に、会話の記録は速記に頼るのが一般的だった。当時のアメリカの特許庁の担当者も、エジソンが蓄音機の特許を出願に行った際に、出願の項目に「蓄音機」が存在せず、困ったようである。

とはいえ、この蓄音機には思わぬ価値があった。「娯楽」としての利用である。録音された音が、時間を置いて再び再生されるという現象は、当時の人々にとって非常に不思議で魅力的な体験だった。エジソンはこの仕組みを「見世物」として披露し、人々の関心を集めることで成功を収めていたのである。

発明家から起業家へ

1879年、エジソンは彼の最も有名な発明である白熱灯の特許を取得し、あわせて直流発電機の改良にも成功する。白熱灯による照明を社会に普及させるには、発電所から電力を安定して供給できる電気インフラの整備が不可欠だったからである。この頃からエジソンは発明家というよりも、起業家としての様相を呈するようになる。

そんな科学者よりも経営者としてのエジソンの姿勢を象徴するエピソードが、1883年に発見し特許を取得した「エジソン効果」に関するものだろう。後に、このエジソン効果を用いて、真空管が半導体として使用されるようになり、そこからコンピューターといった現代社会の必需品が生まれていく。しかし興味深いのは、エジソン本人はこの現象にどのような価値があり、どういう原理なのかを深く研究しようともせずに、特許だけは取得したのである。これはまさにエジソンの「ビジネスマインド」が垣間見える一件だといえるだろう。

また、1876年にメンロパーク研究所を設立して以降、エジソンは経営者として優秀な人材の獲得にも力を入れていった。1884年、エジソンの元で働くためにヨーロッパからアメリカへ渡ってきたクロアチアの若き発明家、ニコラ・テスラを研究所に招き入れた。しかし、エジソンとテスラは性格も考え方も大きく異なり、衝突が絶えなかった。エジソンが実用性と特許重視、いわゆる帰納法的な思考のビジネスマンだったのに対し、テスラは理論と理想を追い求める、いわゆる演繹的な思考をする科学者だった。結局、翌年1885年にはテスラが研究所を去ることになり、ふたりの協力関係は短期間で終わりを迎えることになる。

エジソン対テスラの電流戦争

テスラが研究所を去った後、エジソンとテスラの思想的・技術的な対立は、いわゆる「電流戦争」として顕在化する。当時、エジソンは自らが開発した、電圧が時間を通して一定である、直流(DC:Direct Current)による送電方式を強く推しており、すでにニューヨークの一部では直流による電力供給が始まっていた。一方で、テスラは時間によって電圧が変動する、交流(AC:Alternating Current)の方が長距離送電においてのエネルギー損失が少なく、効率的だと主張していた。

1887年、テスラは自身の交流電流システムに関する特許を取得し、ウェスティンハウス・エレクトリック社を経営する実業家ジョージ・ウェスティングハウスの支援を得て、交流送電の普及を本格的に進めていく。これに対し、自らの特許の価値が下がることを危惧したエジソンは猛烈に反発し、あらゆる手段で交流の普及を妨害した。

中でも悪名高いのは、「交流は危険で人を殺す」という印象を広める為に行われた、一連のネガティブキャンペーンだ。エジソンは「感電する」という動詞を「ウェスティングハウスする」と言い換えて広めようとしたり、動物に高圧交流電流を流して公開処刑する実演を行ったりした。さらに、この実演を発展させて、交流電流を用いた電気椅子による死刑執行を政府に提案したりもした。エジソン自身は死刑制度に反対の立場だったが、交流のネガキャンの為なら、死刑制度にも協力したのである。現在でも世界中でアメリカ合衆国のみで、死刑の手段として「電気椅子」という奇妙な方法が残っているのも、この時のエジソンの影響である。

実際に交流と直流どちらが危険か?は、条件によって結果が異なる為、一概には言えない。しかしテスラの交流も感電死のリスクは意外と少なかった為、最初の電気椅子による公開処刑においては、死刑囚がなかなか死ねず、長い時間苦しんだようである。結果的にそれがより残酷なショーとなってしまい、交流のネガキャンとしては皮肉にも大成功だった。テスラもこれに対して言われっぱなしだった訳ではなく、自身の体に100万ボルトの交流電流を流して安全性をアピールするという、何ともクレイジーな手段で対抗した。

だが、技術的な優位性は明らかにテスラ側にあった。電気は、電圧の高さとエネルギーの損失量が反比例する。送電時に電圧を変換して上げる事が容易な交流の方が、エネルギー損失を最小限に抑えた状態で発電所から遠く離れた都市や工場に電力を届けられるという、大きな利点があった。1893年、シカゴ万博の照明事業において、ウェスティングハウスはテスラの交流システムを採用し、アメリカ全土にその実力を示すこととなる。さらに1895年、ナイアガラの滝に建設された世界初の大規模水力発電所でも、テスラ式の交流送電が採用されたことで勝負は決定的となる。以後、世界の送電システムは交流方式を中心に構築されていくことになる。

※3 テスラの交流発電機

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ATesla_polyphase_AC_500hp_generator_at_1893_exposition.jpg

電流戦争では完全に敗北を喫したエジソンだったが、二人のその後の人生を辿ると、テスラが勝者でエジソンが敗者とは言えないだろう。交流に魅せられて思想が強く、会社経営に無頓着だったテスラは、1899年にアメリカ、コロラドスプリングスに研究所を立ち上げて以降、マッドサイエンティストとして、もはやオカルトと言っても良いような実験に傾倒し始める。一方のエジソンは、発明家としてのピークが過ぎた後も、会社経営者として様々な発明に名前を刻み、投資家としての道を進み始める。そんなエジソンが生み出した重要な発明品の中で、最後の時期に完成したのが映画だった。

キネトグラフの開発

1888年、交流へのネガキャンを推し進めていた頃、それと同時にエジソンは「動く写真」すなわち映画の開発に着手していた。エジソンが映画の開発に着手してまず最初にやった事は、特許の保護願を取得する事だった。特許の保護願とは、発明者がまだ発明を完全に完成させていない段階で、そのアイデアを特許庁に通知し、自身が発明した際の優先権を主張することが出来る、19世紀後半のアメリカに存在した制度のことだ。エジソンによる特許を取得する為の努力は、開発を始める前から始まっていたという、何ともエジソンらしいエピソードだろう。エジソンはこの保護願において、映画を撮影する機械を「キネトグラフ」と名付け、「フォノグラフ(蓄音機)が耳に与えるのと同じことを目に与える装置」と定義した。

次にエジソンは、映画開発部門のトップとして、若きスコットランド人技術者ウィリアム・K・L・ディクソンを選出した。よって映画の開発者としてはエジソンの名前が有名だが、実際の設計と試作を主導したディクソンの功績も見落とすことはできないだろう。

初期の試作では、エジソンが以前開発した蓄音機や、これについては次回の記事に詳しい説明を譲るが、「絵が連続して動いて見えるおもちゃ」であるフェナキストスコープやゾートロープといった玩具の原理を応用し、シリンダー式の装置を使って映像化を試みた。

シリンダーの曲面に写真を螺旋状に配置していき、その写真を一枚ずつ投影していくという仕様だったが、この方式には致命的な欠点があった。まず、シリンダーの曲面に映像を投影すると、写真の端に焦点が上手く当たらずどうしてもボケてしまう。さらに、写真を螺旋状に配置する構造上、映像の長さを伸ばすにはシリンダー自体をどんどん長くしなければならず、現実的ではなかった。

「どうすれば曲面に鮮明に映像を投影できるのか? どうすればもっと長い時間映像を記録できるのか?」と模索していたある日、エジソンは前述のイーストマン社が開発した柔軟な写真用フィルムの存在を知る。これこそが、映画技術を大きく前進させる転機となった。映像をシリンダーに直接印刷するのではなく、写真フィルムを使って撮影し、それを巻き取ったり伸ばしたりして扱えば、保存も投影も自由自在になる。必要な時だけ平らに伸ばせば映像は鮮明に映り、保管時は巻いておけば邪魔にならずにすむ。このアイデアによって、ついに「動く写真」の実現が現実味を帯びてきた。

1889年または1890年のある日、エジソンとディクソンはこの手法を用い、試験的な映像作品『モンキーシャインズ』の制作に成功する。これが、キネトグラフによって撮影された最初の実験映画となったが、この作品を一目見ればわかるが、明らかに焦点が合っていないボヤけた映像だ。キネトグラフの実用化は、まだ遠く、シリンダー型では映像の時間や画質に限界があることが明白だった。

※4 シリンダー式キネトグラフでテスト撮影した『モンキーシャインズ』(1889年または1890年頃)のフィルムのシート

undefined

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Kinetoscope#/media/File:MonkeyshinesStrip.jpg

ストリップ式へ方向転換

『モンキーシャインズ』で一定の成果を上げた後、ディクソンとエジソンは、より長く、より鮮明で、より安定した映像再生が可能な方式として、フィルムを帯状(ストリップ式)にして、連続的にカメラへ送る方式へと大きく舵を切ることになる。エジソンはイーストマン社から写真用フィルムを大量に購入し、これを用いて開発を進めた。

※5 イーストマンが35mmフィルムをエジソンに渡してる歴史的な写真

undefined

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/35_mm_movie_film#/media/File:Eastman_giving_Edison_the_first_roll_of_movie_film_01.png

この方式では、写真が一定間隔で並んだ長尺のフィルムを、一枚ずつコマ送りする構造が求められる。だがこの段階で一つ、大きな技術的問題に突き当たる。フィルムを正確なタイミングで動かし、瞬時に止めて静止画として投影するという精密な動作が、既存の送り出し機構ではうまくいかなかったのだ。

この課題を解決する鍵となったのが、フィルムの端に一定間隔で開いた穴、いわゆるパーフォレーションを導入するという工夫だった。これにより、送り機構がフィルムの穴を歯車のように噛んで、正確な位置で止めたり進めたりすることが可能になる。

※6 35mmフィルムで左右に開いてる穴がパーフォレーション

A reel of 35 mm black & white movie film negative stock

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/35_mm_movie_film#/media/File:35mm_movie_negative.jpg

このパーフォレーションという技術を思いついた背景には、エジソン自身の電信士としての経験が活きていたとされる。当時の電信機やテレタイプ装置では、紙テープに穴を空けて情報を記録し、送信する仕組みが使われていた。その原理を映像フィルムに応用するという、エジソンの経験が活きた実用的な発想だった。

ディクソンの挨拶

こうしてストリップ式フィルムとパーフォレーションの技術を取り入れたことで、ディクソンとエジソンの映画開発は大きく前進する。ついに彼らは、後に映画史において最初の映画の一つに数えられる短編フィルムの撮影に成功する。それが、1891年に撮影された『ディクソンの挨拶(Dickson Greeting)』である。

※7 ディクソンの挨拶

File:Dickson greeting.jpg


出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ADickson_greeting.jpg

この作品は、映画と言っても現代の感覚とは大きく異なり、わずか6秒程度の長さしかないモノクロのサイレント映像である。画面にスーツ姿のディクソン本人が現れ、カメラに向かって帽子を取り、軽く頭を下げるだけの、非常にシンプルな内容だ。しかし、この短い映像こそが、人間の動きを連続写真として記録し、再生するという「映画」の核心を初めて視覚的に示した瞬間であり、まさに「動く写真」の誕生といえる。

個人的な話をすると、自分はこの作品の存在を初めて知った時、YouTubeに最初に投稿された動画である、「me at zoo」という19秒の短い動画のことを思い出した。YouTubeの共同創設者であるジョード・カリムが、サンディエゴ動物園の象の前に立ち、「さて、象の前にいます。こいつらの好きなところは、すごくすごくすごく長い、えー、鼻を持っているところ。格好良いよね。とりあえずそれくらいかな。」と英語で喋るだけの、なんてことない動画である。しかし、この動画も現在では3億回以上再生されていて、ネット動画時代の幕開けを象徴するものとして記憶されている。Youtubeも映画も、最初は開発者が何気なく挨拶をしているだけの動画から始まったという点では、同じだろう。

キネトスコープの開発

さて、そんなキネトグラフで撮影された映像が、どのようにして社会に受容されていったのかというと、実はエジソンは、キネトグラフの特許保護願を最初に提出した時点で、その映像を再生するための機械、「キネトスコープ」の保護願も同時に提出していた。つまりエジソンは映画を「発明」として成立させるには、「撮る」と「見せる」を両輪として、同時に開発する必要があると、当初から見抜いていたようだ。

しかし、完成したキネトスコープの装置としての基本構造は、現在の劇場で上映されるような映画とは、大きく異なる。箱型の装置の上部に覗き穴がついており、内部に映し出される映像を一人ずつ順番に覗き込んで見るという形式の鑑賞装置である。

※8 キネトスコープ

undefined


出典 : https://en.wikipedia.org/wiki/Kinetoscope#/media/File:Kinetoscope.jpg

序章でも書いたが、カメラとはラテン語で「暗い部屋」を意味する「カメラ・オブスキュラ」が語源の言葉だ。上映形式の映画や、テレビ、スマートフォンといった平面のディスプレイに慣れた現代人にとっては、暗い箱をわざわざ覗き込むという仕様は少々奇妙に思えるかもしれない。しかし、一眼レフカメラや初期のビデオカメラのファインダーを思い出せば、この形式も当時としては十分に合理的な方法だったことが分かるだろう。

娯楽としての受容

エジソンは、完成したキネトスコープをどのように売り出すかについて、すでに明確な方針を持っていた。というのも、彼は蓄音機の開発の際に、「実用的な記録装置」としての販売に苦戦した経験から、キネトスコープは最初から「娯楽用」として売り出していく事にした。

1894年、ニューヨークに世界初の映画館「キネトスコープ・パーラー」が誕生する。

※9 キネトスコープパーラー


出典:https://theasc.com/asc-museum-kinetoscope

この施設には、複数のキネトスコープ装置がずらりと並び、来場者は一人1台ずつ覗き込んで映像を楽しむという方式だった。この発想の裏には、、当時アメリカの街角で流行していた「ニッケル・イン・ザ・スロット・マシン」、すなわち1回5セント(ニッケル)を投入して遊ぶコイン式の自動娯楽機械の存在がある。ジュークボックスや簡易スロットマシンなど、硬貨一枚で手軽に楽しめる娯楽は、すでに庶民の間で広く受け入れられていることを、エジソンはしっかりと観察していた。キネトスコープも同様に、1回5セントで楽しめる「見る娯楽」として普及させようと考え、現代のゲームセンターやガチャガチャ専門店に近い感覚で、キネトスコープ・パーラーは開業したのである。

このキネトスコープパーラーで上映されていた映像は、ダンサーの踊りやレスラーの試合、コメディ風の短い寸劇など、「ディクソンの挨拶」よりも少し発展してはいたが、内容としてはごく簡素なものだった。しかし、「写真が動く」という体験そのものが、それまでの人類の長い歴史から考えると画期的であり、人々にとってはそれだけで十分に衝撃的かつ、魅力的な「見世物」だった。映像技術そのものが新鮮だった時代、観客にとっては内容よりも「動く」という現象そのものが主役だったのである。

よって第一章では、映画の歴史において最初に現れたジャンルである、「見世物としての映画」の歴史を追っていこうと思う。「思想」や「芸術」といった知性が介在しない、純粋に見て楽しむだけの「見世物」としてのみ存在する、享楽的な映画の歴史を、実例を挙げつつ振り返っていこうと思う。

この記事を書いた人

タグはありません