
個々の作品への感想は前回で終わりましたが、終了後にみんなから感想を貰いました。
座談会終了:みんなの感想
いまちゃん「最後、結論みたいなのがあって、会が終わるといいな」と思ってたんですけど、僕『桜桃』でみんなの感想に全然ついて行けませんでした。僕の理解が及ばない方向に話が進んで行ってしまって、僕が会を締めるに締めれなくなってます。
でも、「1:はじめに」で言ってた「5作品のプロットとストーリーの度合い」の分類表は、今改めて考えても正しかったと思います。だって最初の方はあんなにベラベラ喋っていたプロット人間である僕が、最後の方は全く話について行けなかった訳ですからね。
僕一人で無理に結論を出そうとすると、すごい表面的になってしまうと思うので、最後に皆さん一人ずつに、座談会の感想を言って貰って終わりにしましょう。
えっちゃん一番の感想は「もう17時過ぎてるんで、帰らして欲しい」って所なんですけど、、、(笑)
でも、今回は色んな読み方をしてる人がいるっていうのが知れて興味深かったです。
自分が読んだことない作品に触れる機会っていうのを設けてくれたいまちゃんには感謝です!
その人らしさが選書に出ているのも面白かったんですが、それ以上に、長く一緒に働いてても知らなかった一面が見られたのが新鮮でした。
「いろんな読み方がある」と先ほど言いましたが、自分とは違う物語の受け取り方って、普段の会話ではあまり共有しないですよね。考え方が違うなと思うことはあっても、どうしてそう感じたのかまでは日常では話さないことが多いので。
自分や他人の思考の流れをいったん受け止め合う体験は、哲学対話くらいでしかしたことがなかったんですが、「共感はできなくても理解する」ことの大切さを改めて感じられる、いい機会になりました。ありがとうございました!
まなみちゃん他人の内面を見れたし、自分の内面も他人に見られたのかな、と思って面白かったです。
よーちゃん。5人5用の物語があって、とても面白かったです。
いまちゃんの選んだ作品が意外やったんですけど、いまちゃんの話を聞いてると、「ああ、そういう見方なんやな」と納得できたりして、新たな気づきがありました。
けーくん僕はこんなにも同時期に別の作家の作品を、オムニバスみたいに一気に読んだのは初めてだったので、すごくいい経験をさせていただきました。
それと、自分の意見を人に伝える際に、書くより話す方が、断然楽ですね。
いまちゃん僕がこの後、記事書かないと、、、(笑)
僕の感想としては、最初、「選んだ人のキャラクターが分かる作品が読めたらいいな」みたいに、思ってたんですけど、結果的に思っている以上に結構、一人一人の傾向が出たなと思っています。それは何か良くも悪くも、期待通りの結果だったし、裏切りがなかったですね。でも、みんなお互いへの理解は深まって良かったと思います。
皆さんありがとうございました。
おわりに:主催者ポエム
僕はこの半年間、物語のキャラクター設定について、ずっと考えてきました。
きっかけは、坂元裕二と新海誠がNHKで行った対談を見たことです。「君の名は。」といったアニメ映画を監督した新海誠は、プロットを先に立ててから、後でキャラ設定を考えていくそうです。一方、「東京ラブストーリー」や「カルテット」といった人気ドラマの脚本を手がけた坂元裕二は、まず最初にキャラクターの前半生を決めてから、プロットに関してはそこまで厳密に固めずに、脚本に取り掛かるそうです。
映画は時間が短いため、キャラを深掘りできない分、プロットで観客を魅了しなければいけません。それに対して全10話以上もある連ドラの世界では、映画のように企画段階で最終話までのプロットを完全に決め切るのは至難の業です。よって坂元裕二は、キャラクターで物語を魅せるために、キャラが勝手に動き出すまで、キャラ設定を作り込んでから脚本の執筆に入るそうです。
そんな対談を見たのと同じ頃、僕は自分が書いた映画の脚本をいろんな人に読んでもらいました。すると、最も多かった感想が「キャラが弱い」というものでした。
おそらく、僕が何年間も人とあまり関わらずに生きてきたことが原因の一つだと思います。もしくは逆に、そういうのがあまり得意ではなかったから、人と関わって来なかったとも言えるかもしれません。
僕は自分の実生活での苦手分野と、創作における苦手分野を同時に解決するために、本格的に物語のキャラクター設定について考える必要があると感じました。
まず坂元裕二のドラマを幾つか見た後に、公式ガイドブックに載っている、キャラの設定表を読み込んでみました。しかし僕からすると、坂元裕二のドラマは、特に最終回でのプロットがやや弱いように感じてしまいました。それぞれのキャラがいい感じに成長して、「よかったですね」みたいな感じで話が終わるのですが、そういった点が見ていて「完全に話が落ちた」という感覚が薄いのです。プロット人間である僕としては、キャラ設定の勉強のために、プロット上のオチとストーリー上のオチが、両方強い作品を探していました。しかし、坂元裕二の映画作品はともかく、ドラマ作品においては、僕の求めていた物とは違ったのです。
そこで次に、歴代の芥川賞作家の有名な作品を読んでいきました。印象に残ったのは村田沙耶香の「コンビニ人間」や、中村文則の「銃」といった作品です。
意外に思うかもしれませんが、これらの作品は個人的な印象として、プロットが強いものが多かったです。純文学では、狂気じみた主人公の心情を丁寧に描いた作品が多いです。その結果、最後に主人公がとんでもない行動をとるような、「無茶苦茶なプロット」を無理なく生み出すことができています。純文学には「確かにこの主人公なら、こんな無茶苦茶な行動を取ってもおかしくないよね」と読み手を納得させるぐらいの、主人公の心情が描かれていました。
ストーリーという土台がしっかりしているからこそ、プロットが多少飛んでいても成立する、そういう印象を受けました。
しかし純文学もまた、僕の求めている答えではありませんでした。まず、多くの純文学は一人称の文体で描かれています。その分、主人公以外の脇役の心情が描かれることはあまりありません。それに加えて、純文学に出てくる主人公の多くが、社会性をほとんど持ち合わせていない「人でなし」です。主人公が作中で、あまり他人と深く関わらないため、主人公の内面は詳しく描かれていても、それが他人の心情と絡み合って物語が展開するような構造は、あまり見られません。つまり主人公のみの心情しか描かれない「純文学」は、複数の人物を動かしてプロットを展開することが前提の「脚本」とは、まったく性質が違うのです。
音楽の世界において、単一のメロディーから作られた曲をモノフォニー(単旋律音楽)と呼び、複数のメロディが混ざり合ってできた曲をポリフォニー(多声音楽)と呼ぶそうです。その音楽用語から借用して、文芸の世界においても、主人公の心情のみに視点が当てられた作品をモノフォニー、複数人の心情が混ざり合う作品のことをポリフォニーと呼ぶそうです。そう考えると、僕が求めているのはポリフォニーの文学で、日本の純文学の多くはモノフォニーであるから、しっくりこなかったのでしょう。
そこで僕が辿り着いたのは、戯曲を読むことでした。僕はこれまでも映画脚本は幾つも読んできました。映画は映像といった様々な要素に頼れる部分が大きいため、あまり個々の登場人物の感情を深掘りしなくても、成立する性質があります。その一方で、舞台は映画に比べて要素が少ないため、登場人物自体が最大の見せ場になります。それに加え、戯曲は純文学よりも幾分ポリフォニー的です。映画脚本より人物描写が丁寧で、純文学よりもポリフォニー的な舞台脚本を読むことこそが僕の最適解だと考えました。
僕が読んだ戯曲の中で最も印象に残ったのは三谷幸喜の『オケピ』です。三谷幸喜は脚本家として、「当て書きしかできない」「脚本を書くのが遅い」「自身のシナリオ集を出版しない」という三つの特徴で有名ですが、その理由がようやく分かりました。
三谷幸喜はドラマ出身の坂元裕二とは違い、演劇出身の脚本家です。映画やドラマの世界においては、脚本がクランクインまでに完成していなければ大問題ですが、舞台の世界においては事情が違います。舞台の場合は公演の何週間も前から稽古を行いますが、稽古初日にはまだ脚本が完成していなくても問題ありません。なぜなら、稽古初日には最低でも数ページだけ脚本があれば、続きは役者がアドリブで演じてくれるから、だそうです。そして役者がアドリブで行った演技を見た脚本家が、それをヒントに物語の後半を作り、公演初日までに脚本を完成させるそうです。
三谷幸喜は役者が稽古中に即興で言ったセリフをそのまま採用することもあるそうです。よって「当て書きしかできない」「脚本を書くのが遅い」とかの次元ではなく、そもそも脚本と舞台の因果関係が逆だったりする訳です。それ故に、三谷幸喜は自身の脚本を「半分は自分が書いたが、残りの半分は役者が作ってくれたもの」と考えているそうです。だからこそ、完成したシナリオを、自分の著作として発表したがらないそうです。
一方で、シナリオコンクールで優勝してドラマの世界に入った坂元裕二は、自身のシナリオを単体として読んでも成立するように、作品として執筆しています。だからこそ、度々シナリオを出版しているのでしょう。
そしてそんな三谷幸喜が唯一出版した脚本が『オケピ』でした。この作品はミュージカル作品であるため、音楽の都合上、稽古初日に既に脚本を完成させていたそうです。だからこそ三谷幸喜は自信を持って「自分の作品」と語っています。それに加え、同作が岸田國士戯曲賞を受賞したことも相まって、彼の作品で唯一出版された脚本になったのだそうです。
ちょうどその頃、僕は「ハナプレ」の九月編集長に就任しました。プロットとストーリーの研究に加え、他人との交流を深める狙いもあって、この企画を立ち上げました。結果的に、思いのほかメンバーのキャラクターがよく見える場になりました。
録音したデータをもとに記事を作る作業は新鮮でした。自分の意見とは違う他人の考えを、その発言内での整合性を保ちながら文章化していく経験は、意外と初めてでした。人の発言を後から編集して記事にまとめていく感覚は、まるで三谷幸喜が稽古中に役者がやったアドリブを基に脚本を書いていくみたいな感覚で、とても楽しかったです。
ただ、連載が最後の回を迎えたとき、「わかりやすい結論」を出すことができませんでした。僕はこの連載の最後に、僕のこの半年間の問いに対する、何か分かりやすい結論を出したかったからです。
そこで僕はようやく気づきました。坂元裕二のドラマのように、みんなのキャラクターを尊重すればするほど、プロット上のオチは弱くなっていく、ということです。逆に、何かひとつの明快な結論を出そうとすれば、誰かの個性を削ることになってしまいます。それぞれの心の中に、それぞれの結論があるのですから。
僕は、キャラクター毎のストーリーを立てたことで、プロット上のオチが弱くなるという現象を、今後の人生で受け入れていくしかないのだろうと思いました。
この座談会に分かりやすい結論なんかない、それぞれの心の中が少しだけ変化して、それぞれの人生は今後も続いていくのだから。
という結論で、どうでしょうか。
皆様、長い連載を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。