3:工場の出口

ようやく登場した世界最初の映画

選出理由

インターネットで「世界最初の映画」と検索するとこの作品が真っ先に出てくるだろう。そう言う点で、本作を100本に選出するに当たっての理由はそれだけで十分かもしれない。また本作の監督であるルミエール兄弟の一連の作品群は、その歴史的な重要性も去ることながら、構図の美しさや作品のテーマ性から、芸術的にも重要な作品として、映画の歴史のスタート地点に現代でも燦然と輝いている。

前史

これまで書いてきたように、映画は、エジソンのキネトスコープと、レイノーのテアトルオプティークのアイデアの、合わせ技で生まれた。しかし、エジソンやレイノーと同時期に「動く写真」を開発しようとした人たちは、世界中に存在していて、それらの系譜からも影響を受けて映画は誕生した。今回は、「その他の系譜」を紹介しつつ、ルミエール兄弟の手によってフィルムによる上映が誕生した経緯を書いていく。

1872年のある日、実業家のリーランド・スタンフォードは友人たちとの雑談のなかで、こんな疑問を投げかけた。「馬が全速力で走っているとき、すべての脚が地面から離れる瞬間はあるのか?」と。現代人は当然ながら、その答えを知っている。馬が全ての足を地面から離す走法を、ギャロップと呼ぶことを。しかし、当時そのテーマは激しい論争を呼び、誰もが馬の速さとその動きに魅了されていたが、それを肉眼で正確に把握することは難しかった。スタンフォードは、この疑問を明らかにするために科学の力を借りることを決める。彼が選んだ人物が、後に映画の歴史に欠かせない名を残すことになる写真家、エドワード・マイブリッジである。

1878年、マイブリッジはスタンフォードの依頼を受けて「連続写真撮影」に挑戦した。彼はカリフォルニア州パロアルトに特設の馬場を設け、そこで24台のカメラを直線に並べた。各カメラには細いワイヤーが張られ、馬が走り抜けるたびにその体がワイヤーを引き、瞬間的にシャッターが切れる仕組みであった。

そして撮影されたのが、有名な「The Horse in Motion(動く馬)」という連続写真である。

※1 動く馬

写真は明確に、馬の全ての脚が地面から離れている場面を捉えていた。この一連の連続写真は、単にスタンフォードの疑問を解消するだけでなく、「時間を分解し、目に見えなかった運動を視覚化する」という人類初の試みにもなった。

マイブリッジの仕事は、後に「クロノフォトグラフィ」と呼ばれる分野を拓いた。これは、写真を用いて時間の経過や動作の変化を可視化する技術である。彼の作品はサイエンス、アート、そして後の映画人たちに強烈なインスピレーションを与えることになる。

1880年、マイブリッジはカリフォルニア美術学校での発表の際に、記録した映像をズープラクシスコープを使って動く絵で映し出した。これはフェナキストスコープの手法を用いた装置だった。

マイブリッジの業績に影響を受けた科学者の一人に、フランスの生理学者エティエンヌ=ジュール・マレーがいる。彼は動物や人間の運動を科学的に分析しようとし、1882年に「写真銃(chronophotographic gun)」という驚くべき装置を発明した。

※2 写真銃

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fusil_de_Marey_p1040353.jpg

この装置はその名の通り、見た目がまさに銃であり、リボルバー式の構造を用いて一秒間に12枚の連続写真を1枚の円形ガラス乾板に記録できた。マレーはこの装置を用いて、鳥の飛翔や人間の歩行、ジャンプといった複雑な動作の連続性を記録し、視覚的に分析可能にした。

※3 マレーが撮影したペリカン

彼が目指したのはあくまで科学であり、娯楽ではなかったが、この技術は結果的に映画の成立へと連なる重要な一歩となった。マレー自身も、やがて連続写真をスクリーン上で再生することで運動を「映像」として見せることができないかと考えるようになるが、その構想を実現するには、まだフィルムという媒体や投影の技術が整っていなかった。

また、1888年、フランスのル・プランスはエジソンよりも先に、キネトグラフとほぼ同じ機構のフィルム撮影機を開発する。ル・プランスの『ラウンドヘイの庭のシーン』が現存する世界最古の動画とされることも多いが、この技術が世界に広まることは無かった。

※4 ル・プランス「ラウンドヘイの庭のシーン

そしてその3年後の1891年に、エジソンはキネトグラフとキネトスコープを発明する。その際にエジソンはマイブリッジやマレーの発明にも影響を受けたそうである。

1895年、既にテアトルオプティークで成功を収めていたエミール・レイノーはグレヴァン博物館での興行を続けていた。しかし、彼の絵は写真と違い複製が出来なかったため、一つの作品を各地で上映するということが不可能だった。そう考えると、テアトル・オプティークは本当に映画と呼べるのか?という問題が発生する。エジソンが発明したキネトスコープは、上映という仕組みこそなかったものの、ネガフィルムが存在しており、ネガポジ方式によって映像の複製が可能だった。つまり、フィルムさえあれば同じ映像体験を別の時代、場所で再現できるという点で、現代の映画の基礎的な性質をすでに備えていたと言える。

一方で、レイノーのテアトル・オプティークは、本人が舞台裏で透明なセルを手動で送りながらキャラクターを動かしていた。映像内の動きはセルロイド上に物理的に記録された部分もあったが、更にその場でレイノーが動きをつけることで初めて「アニメーション」として成立していたのである。つまり、彼自身の手作業なしには成立しないパフォーマンスだった。

現在YouTubeやWikipediaなどで観ることができるテアトル・オプティーク作品の動画も、現代の研究者たちが、当時使われたセル画などを参考に、どのような動きだったかを推測して再現した映像に過ぎない。そのため、我々が目にしているものは、オリジナルそのものではなく「再演」なのである。そう考えると、テアトル・オプティークは、映画というよりも「映写型の人形劇」と言った方が、実態に即しているかもしれない。フィルムに記録されていたわけでも、機械が自動的に動かしていたわけでもなく、レイノー本人の演技が不可欠なものだったからだ。

そんな中、レイノーはマレーが考案した連続写真撮影術クロノフォトグラフィの存在を知る。彼は、テアトル・オプティークの上映に写真を利用することを思いつき、1895年10月に「フォトセノグラフ(Photo-Scénographe)」という撮影機を完成させた。レイノーはこれを用いて上映を行ったそうだが、写真の上に絵を描き足したりしていたため、作品の複製は不可能であった。結局、アニメーションを発明したレイノーだったが、映画を発明することは無かったのである。

作品の概要

1894年、フランス・リヨンに住んでいた写真家、アントワーヌ・ルミエールは、パリにてエジソンの発明したキネトスコープを見て衝撃を受けた。レイノーのテアトルオプティークと、キネトグラフを組み合わせることで、上映形式の映像鑑賞を実現できるのでは?と考えたアントワーヌは、彼の息子であるオーギュストとルイに、そのアイデアを譲り、二人の映画の開発を後押しした。理論家であり技術者でもあった弟ルイ・ルミエールはミシンの足踏み機構から着想を得た「間欠運動」の仕組みを応用し、1894年から改良型映写機「シネマトグラフ」の開発に取りかかった。シネマトグラフはカメラ、現像機、映写機の3機能を1つに統合した画期的な装置だった。その最大の特徴は、軽量で持ち運びができ、上映にも適していた点である。

※5 シネマトグラフ

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Institut_Lumi%C3%A8re_-_CINEMATOGRAPHE_Camera.jpg

ルイの技術とオーギュストの経営感覚が相まって、ルミエール兄弟はやがて、世界初の映画作品を完成させるに至る。前回紹介したレイノーの「テアトル・オプティーク」は、あくまで作者本人の手作業による「上演」であった。それに対し、ルミエール兄弟のシネマトグラフが決定的に違ったのは、「現実をそのまま記録し、何度でも正確に複製できる」という点にある。

エジソンのキネトグラフと同様、ネガフィルムからポジプリントを作るというこの方式は、同じ映像体験を、同じ品質で、世界中のあらゆる場所で再現することを可能にした。ここに「パフォーマンスとしての映像」から「メディアとしての映画」への決定的な転換点がある。

1895年3月19日、ルミエール兄弟はリヨンにある自社工場の正門前にカメラを設置し、昼休みになった従業員たちが一斉に工場から出てくる様子を撮影した。これが『工場の出口(La Sortie de l’Usine Lumière à Lyon)』である。

※6 工場の出口

映像の長さはわずか46秒。だが、この短い映像の中に、後の映画的表現の萌芽がすでに見て取れる。映画監督の黒沢清もそう語っているが、映画において「門」は画になりやすい。門は一つの画面内に納める事が出来るし、人の出入りという動きもある。そして、建物の中と外を一枚の画で写す事が出来る。

当時のフィルムは50秒程度しか撮影できず、カメラを動かすとピントがズレてしまう。そのためルミエール兄弟は絵の構図に芸術性を見出した。そのせいか、ルミエールの作品は、どれも構図が美しい。また、当時のフィルムとしての貴重さを考えると、おそらく何度もリハーサルや試行錯誤を繰り返し撮影に挑んだ事も要因の一つだろう。これまで紹介したエジソンやレイノーの作品群と違い、本作は「映画」として現代でも正当に評価されている映画である。

本作は撮ってすぐの3月22日に身内での上映会を行い、その後も何度か上映会を行ったそうだが、一般に公開されることは無かった。同年12月28日、パリのカフェ・グラン・カフェの地下室において、ルミエール兄弟は一般観客に向けて有料映画上映会を実施する。近世以降のヨーロッパにおいて、劇場と並んで市民文化を先導していた存在である、カフェにおいて映画は誕生したのであった。

上映された作品は10本の短編からなり、その中には『工場の出口』のほか、今や伝説となっている『ラ・シオタ駅への列車の到着』も含まれていた。

※7 列車の到着

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Le_film_%22L%27Arriv%C3%A9e_d%27un_train_en_gare_de_La_Ciotat%22_projet%C3%A9_%C3%A0_l%27Institut_Lumi%C3%A8re_et_refl%C3%A9t%C3%A9_dans_un_miroir_(d%C3%A9cembre_2023).jpg

この作品は、駅に向かって突進してくる蒸気機関車を真正面から撮影したものである。観客はこれを見て本当に列車が迫ってくると錯覚し、悲鳴を上げ、椅子を倒して逃げ出したという逸話が残っている。上記のエピソードはスコセッシの「ヒューゴ」でも再現されているが、真偽のほどはともかく、それだけ映画という新しい体験が衝撃的だったことを示している。

その後

ルミエール兄弟はその後、何度も、ほとんど同じ内容の映画を撮った。有名な「工場の出口」や「列車の到着」も様々なバージョンが存在する。当時は複製の度にフィルムが摩耗してしまうため、人気作品はほとんど同じ作品を何度も撮り直すことで、需要に答えて行ったのだった。そして、それがルミエール兄弟の作品が更に洗練されていく要因の一つにもなった。

そして彼ら兄弟は、フランス国内のみならず、世界中に映画技師を派遣し、撮影や上映を行った。ヴェネチアでは、船にカメラを載せ、移動撮影を行ったり、イスタンブールのアヤソフィア、パリのエッフェル塔、エジプトのスフィンクスといった、現在も残る観光名所の世界初の映像を収めている。そして我が国、日本にも技師が派遣され剣道の試合の様子が撮影され、日本初の映画の上映会も行われた。エジソンのキネトグラフは電気がないと動かず、撮影のみしか出来なかったが、シネマトグラフは一台で撮影と上映が可能で、手動で動かすことができた点も、シネマトグラフが世界に広がった要因の一つだろう。

ルミエール兄弟の映画は、当初、日常の一場面を切り取ったドキュメンタリー的なものが多かったが、やがてフィクションの可能性にも気づくようになる。代表的な作品が『水をかけられた散水人(L’Arroseur Arrosé)』である。

※8 水をかけられた散水人

庭師が少年に水をかけられ、逆に仕返しをするという短い寸劇だが、後の喜劇映画の基本要素が揃っている。更に、「塀の取り壊し」という作品では、一度塀を取り壊す映像を見せた後、フィルムを逆再生することで崩れた塀が元通りになるという演出も行った。ルミエール兄弟はただの日常の映像を観客に見せるだけでなく、特殊効果を用いた映像や、物語映画の誕生にも寄与したのだった。

しかし1902年、ルミエール兄弟は、フランスの映画会社であるパテ社に自身が持つシネマトグラフの特許を売却してしまう。彼らは新しい技術にしか興味がなく、すでに成功した映画ビジネスに対して、それ以上の関心を持てなかったのが原因ともされている。彼ら兄弟はその後、オートクロームという世界初の実用カラー写真を発明したりと、発明家としてその生涯を終えるのであった。

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