5:キートンの探偵学入門

享楽のハリウッド

選出理由

1910年代は映画の長編化の時代だった。10分前後の短編作品なら単純な物語と、映像の面白さだけで観客を満足させることが可能だった。しかし、1時間を超える長編映画となると思想や芸術性といった要素の重要性が増してくる。

そんな中で、「見せ物」としての魅力のみで映画の長編化に成功したのが、本作の監督・主演を務めたバスター・キートンだろう。危険なスタントを自らこなし、身体一つで映画の可能性を切り拓いた彼の精神は、後のジャッキー・チェンやトム・クルーズへと脈々と受け継がれていくことになる。

そしてキートンといったコメディ俳優が活躍したのは、映画の都であるハリウッドが建設された時期とも重なっているのであった。

前史

1895年、発明王エジソンと袂を分かったウィリアム・ディクソンは、レイサム兄弟と共に「レイサムループ」を開発した後、自らの映画会社「アメリカン・ミュートスコープ社」を設立する。この会社は1899年には「アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社」と改称し、1908年には単に「バイオグラフ社」を名乗るようになる。そしてエジソン社との激しい特許戦争を経て、バイオグラフ社はアメリカ映画業界のトップに君臨することになる。

※1 バイオグラフ社のロゴ

1900年代初頭、フランスのルミエール兄弟やジョルジュ・メリエスの映画は、大西洋を越えニューヨークの観客をも熱狂させた。彼らの映画に魅了されたニューヨークの若者の中に、後に「喜劇の父」と呼ばれる、マック・セネットという喜劇俳優がいた。

※2 マック・セネット

セネットはディクソンが運営するバイオグラフ社の門を叩き、後に「映画の父」と称されるD・W・グリフィスに師事する。俳優として演技をこなしながら、セネットはグリフィスの革新的な演出技術を貪欲に吸収していった。そしてやがて、彼はスラップスティック・コメディと呼ばれる、新たな「ドタバタ喜劇」の可能性を見出していくのである。

1910年代初頭、ニューヨークの映画産業はエジソンとの特許紛争により混乱していた。そんなある日、セネットを含むグリフィスの一行は『In old California』という作品のロケで、アメリカ西海岸のハリウッドへと向かう。当時のハリウッドは、まだ一面にオレンジ畑が広がる未開の土地に過ぎなかった。フィルムの感度が低く、照明器具も発達していなかった当時、映画撮影には太陽光を用いるのが一般的だった。彼らは一年を通して雨が少なく、光量の多いハリウッドに、映画製作の理想郷としての可能性を見出した。こうして「特許紛争から逃れたい」「広大な土地が安く手に入る」「晴れの日が多い」という単純な理由から、映画人達は徐々にニューヨークからハリウッドへと移り始めたのであった。

1912年ハリウッドにて、セネットは満を持して自らの映画会社「キーストン社」を設立し、短編コメディ映画を次々と作り始める。セネットには、舞台の世界から映画の才能を見抜く類稀なる審美眼があった。彼は後にデブ君(Fatty)の愛称で親しまれる、舞台俳優のロスコー・アーバックルを発掘する。

※3 ロスコー・アーバックル

現在でもコメディの小道具として使用されるパイ投げを最初に映画で用いたのも、セネットとアーバックルだった。またセネットは、スクリーンに華を添えるために「セネット・バス・ビューティーズ」と呼ばれる水着美女たちを登場させ、観客の視線を釘付けにするという商才も発揮した。

1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、戦火を逃れた多くの映画人たちがハリウッドへと流れ込んできた。こうして才能と資本が集中したハリウッドは、世界の映画産業の中心地としての地位を確立していく。当時のハリウッドは、文字通り「享楽」の街だった。しかし、その狂乱は突如として終わりを迎える。

1921年、セネットの愛弟子であり、人気俳優ロスコー・アーバックルが、女優の死に関わるスキャンダルで起訴されたのだ。最終的に無罪とはなったものの、「ロスコー・アーバックル事件」として知られるこのスキャンダルは全米に衝撃を与え、「不道徳なハリウッド」を糾弾する世論が爆発した。この事件をきっかけに、自由奔放だったハリウッドのコメディ業界における「享楽の時代」は終焉を迎える。

やがてセネットは映画産業への情熱を失い、不動産業へと転身した。彼が手がけた不動産開発の一環として1923年に建てた広告看板こそが、後にハリウッドのシンボルとなる「ハリウッドサイン」である。これが、映画の都ハリウッドの建国神話と言っても良いだろう。

※4 ハリウッド・サイン

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hollywood_Sign_(Zuschnitt).jpg

作品の概要

ここからは、今回の主人公であるバスター・キートンについて説明していく。

1895年、バスター・キートンは旅回りのボードビル芸人夫婦の元に、巡業先の安宿で生まれた。舞台に時間を取られ、息子の面倒を見る時間がなかった両親は、バスターを幼い頃からステージに立たせ始めた。しかし、酒乱でDV気質な父親は激しいスラップスティック芸で、容赦なくバスターを舞台上で投げ飛ばしたり、蹴り飛ばしたりしていた。ある日、これらの「演劇」が児童虐待として社会問題となり、バスターキートンは身体中に傷がないかを調べられた。しかし、バスターの体には傷一つなかった。彼は「異常に受け身の上手い子供」だったのである。こうして彼は「頑丈な」を意味するバスターを芸名として使用するようになる。

1917年、巡業先のニューヨークで、キートンの運命を変える出会いが訪れる。マック・セネットの愛弟子であり、当時すでにスターだったロスコー・アーバックルが、舞台上のキートンの才能に目を留めたのだ。アーバックルの誘いを受けたキートンは、彼の短編映画『ファッティとキートンのおかしな肉屋』に出演し、スクリーンデビューを果たす。舞台で鍛え上げられた驚異的な運動神経と、生まれ持った身体的なコメディセンスは、映画というメディアと完璧に調和した。

脇役からスタートしたキートンだったが、瞬く間に主演へと抜擢され、アクションコメディの新星として注目を集めるようになる。そんなキートンは、どんな過激なアクションにも無表情を貫き、作中で一度も笑わない演技が特徴的だったことから「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」と呼ばれるようになる。そしてチャップリンといった、当時の喜劇俳優の王道を辿り、キートンも自身の主演作で監督を兼任するようになる。そんな彼の短編映画、監督第1作が「文化生活一週間」であった。本作は短編時代のキートンにおける原点にして頂点と言える作品だろう。

キートンの魅力は危険なスタントだけでなく、特殊撮影にもあった。1921年公開の『キートンの即席百人芸』ではメリエスの『一人オーケストラ』の影響を受けた多重露光を駆使する。

※5 『キートンの即席百人芸』の該当シーン

また、1922年『Day Dream(邦題:成功成功)』では、おそらく世界初のワイヤーアクションを駆使する。そして、この作品の脚本は、前述のスキャンダルでハリウッドを追放されていたロスコー・アーバックルに、キートンが密かに依頼して書かれたものだった。

※6 『成功成功』でワイヤーを用いたアクションシーン

しかし、そんな短編コメディ映画のブームも過ぎ去ろうとしていた。1921年、それまで短編作品ばかりを撮っていたチャップリンが『キッド』という一時間超の長編コメディ映画を発表する。短編時代は割と享楽的な作風も多かったチャップリンだったが、これ以降、思想を踏まえた長編作品に傾倒し始める。そして、同年には前述のロスコーアーバックル事件も起こり、ハリウッドの短編コメディ映画は一気に下火となっていく。

そんな喜劇人の中で、自身のスタイルを一切変えることなく短編から長編への流れに対応出来た人物が、バスター・キートンだった。1923年7月、彼は三つの時代の物語をオムニバス形式で繋いだ『キートンの恋愛三代記』を長編映画として公開し、成功を収める。そのわずか2ヶ月後には、単一の物語で構成された長編作品『荒武者キートン(原題:Our Hospitality)』を発表。一般的に映画において、アクションシーンは視覚的な快感こそあれど、会話劇に比べれば物語を停滞させがちな要素である。しかし『荒武者キートン』のクライマックス15分間は、そのほとんどがアクションのみで占められている。キートンは極めてシンプルな筋書きを軸に、純粋な「アクション」のみで観客を魅了した。こうしてキートンはハロルド・ロイド、チャールズ・チャップリンと共に三大喜劇人に数えられるようになる。

 そして1924年、キートンは『探偵学入門』で自らの集大成とも言える作品を生み出す。本作でも危険なアクションを自らこなしたが、それだけに留まらず、カメラトリックや視覚効果を駆使し、通常の撮影では困難な革新的な映像表現に挑戦した。キートンが寝落ちして夢でスクリーンの中に入るシーンでは、背景の切り替えをストップトリックを使用することで実現した。

※7 『探偵学入門』でストップトリックを用いた、キートンがスクリーンに入っていくシーン

また、キートンがバイクの前方に座る展開においては、2台のトラックの上を通過するシーンは多重露光で撮影し、鉄道をギリギリで避けるシーンは逆再生によって撮影した。

※8 多重露光を用いて、下のトラックと上のバイクを分けて撮影したシーン

※9 鉄道に轢かれるスレスレのところを、逆再生で安全に撮影したシーン

また全体的にキートンの動きを早く見せるために、低速度で撮影したものを早回しするアンダークランクも用いられた。

そんな危険な撮影をこなすキートンにとって、怪我はつきものであった。特に、走行する列車の給水塔から水が溢れ出すシーンでは、あまりの水の勢いにキートンは首の骨を折る重傷を負ったが、彼は撮影を中断せず、数年後にレントゲンを撮るまでその事実に気づかなかったという伝説も残っている。

そして本作においてもキートンは、脚本と監督の一部をアーバックルに依頼した。アーバックルは現場で出演者やスタッフ達とソリが合わず、名前もクレジットこそされなかったが、現在、本作の脚本と監督の一部は彼の協力によるものだとされている。スキャンダルにより評判が地に落ちたアーバックルはこの頃から、「ウィリアム(またはウィル)・グッドリッチ」(William(or Will) Goodrich、彼の父の名前) と言う名前で活動を再開し始めた。この名前はキートンが考案し、「Will be good=きっと良くなる」をもじったものだった。

 『探偵学入門』は公開当時、興行的には大きな成功を収めるには至らなかった。しかし、その卓越した作家性は批評家たちから高く評価され、キートンは名実ともに一流映画監督の仲間入りを果たしたのである。

その後

1926年、キートンは彼の最高傑作と名高い『キートンの大列車追跡(原題:The General)』を発表する。同作はキートンのお家芸である鉄道アクションを用いたアクションの集大成であったが、巨額の製作費を投じたにもかかわらず興行的に惨敗してしまう。資金繰りに行き詰まったキートンは、自身のスタジオを解散し、それまで配給のみを委託していたMGM社と、専属俳優としての契約を結んでしまう。

それまで監督、脚本、主演の全てをこなし、自由に制作していたキートンと、MGMのような分業制でシステム化された巨大スタジオでは、映画の作り方がまるで違った。喜劇役者としての先輩であり親友でもあったチャップリンは「料理人が増えるとスープは不味くなるぞ」と言い、この決断に反対したそうだが、金銭的に困窮していたキートンには後がなかった。彼は後にこの決断を「人生最大の過ち」と述懐している。

MGM移籍後の第一作『キートンのカメラマン』は批評的にも興行的にも成功を収めたが、彼の醍醐味である危険なアクションシーンは大幅に減っていた。MGMは人気俳優が怪我をする事によって生まれる損失を防ぐために、スターであるキートンが危険なアクションを行うことを禁じたのだった。ジャッキー・チェンやトム・クルーズ然り、主役が危険なスタントを自らこなす場合は、プロデューサーを兼任する以外の方法はなかったのである。

さらに、映画界に「トーキー(発声映画)」の波が押し寄せる。トーキー時代に入ると、キートンのようなアクションが得意な俳優ではなく、フレッド・アステアのように歌とダンスが得意な俳優に大衆の関心は奪われていった。

不人気からMGMとの契約を打ち切られたキートンは、私生活も荒廃し、離婚やアルコール依存症に苦しみ、映画界の表舞台から姿を消すことになる。そして、かつての師であり親友のロスコー・アーバックルもまた同じだった。1931年、飲酒運転で捕まった際、アーバックルは警察に対して「証拠ならやるよ」と言い飲んでいた酒瓶を投げ捨てたという。その言葉にはスキャンダルにおいて、証拠もなく騒ぎ立てたメディアへの皮肉も込められていた。アーバックルはそのわずか2年後の1933年、心臓発作でこの世を去った。

どん底を味わったキートンだったが、晩年にはテレビの世界で再評価を受ける。かつて誰もが知る大スターであったキートンは、無声映画時代の「生ける伝説」として讃えられ、彼は再び大衆の前に迎え入れられたのである。

この記事を書いた人