6:蒸気船ウィリー

口笛を吹くミッキーマウス

選出理由

現在、世界最大の娯楽企業は、ウォルト・ディズニー・カンパニーで間違いないだろう。『蒸気船ウィリー』はディズニー社が躍進するきっかけとなった作品で、世界で最も成功したキャラクターであるミッキー・マウスのデビュー作でもある。

本作が公開された1928年は、映画フィルムには音声を記録する部分である「サウンドトラック」が設けられ、サイレント映画からトーキー(音声付き)映画へと移行する過渡期であった。『蒸気船ウィリー』は当時の最新技術である、「音声」を有効活用した享楽的な作品だった。

前史

 メリエスはストップ・トリックを発見したが、実は他にも同時代に独自でストップ・トリックを発見した人は何人かいる。1895年8月、エジソン社がキネトスコープ用の作品として制作した『メアリー女王の処刑』において、断頭シーンを再現する際にストップ・トリックを用いている。

※1 『メアリー女王の処刑(1895)』

 これはメリエスがストップ・トリックを発見する1年以上前のことであった。また、「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三もメリエスの後にストップ・トリックを独自に発見したと言われている。

 ストップ・トリックとは、連続する映像をあえて止めて撮影することで生まれる効果である。メリエスは、この発想を発展させることで、「コマ撮り」を発明したと言われている。1898年に、ドイツの玩具メーカーから依頼を受けたメリエスは、アルファベットの積み木(木製ブロック)が自ら動いて文字を作るというCMを制作したと言われているが、フィルムは現存しない。更に、これもフィルムは現存しないが、メリエスは1896年に『稲妻スケッチ』と呼ばれる映画シリーズを作成していた。当時、稲妻のような速度で絵を即興で描くという芸が、寄席の芸人の間で流行っていて、それを映像に収めた作品だった。現存する作品だと、1904年の『手のつけられない髭(The Untamable Whiskers)』で、メリエスが稲妻スケッチをする姿を確認できる。

※2 『手のつけられない髭(1904)』

この即興で絵を描く芸についても、メリエス以外にも同時多発的に世界で映像化がされている。

絵を1コマずつ撮影することで制作されるアニメーションは、「コマ撮り」と「稲妻スケッチ」を用いた作品の発展系として誕生した。19世紀末、稲妻スケッチを用いた芸は、ニューヨークでは「チョーク・トーク」と呼ばれ人気を博していた。ニューヨークの新聞社で、イラストレーターとしても働いていたジェームズ・スチュアート・ブラックトンは、チョーク・トークで寄席にも出演していた。1896年、エジソン社の映画についての記事で絵を描いた縁から、ブラックトンは、エジソン社の映画撮影所であるブラックマリアに招待される。撮影所でブラックトンは、彼の芸であるチョーク・トークの実演を映像に収めた。メリエスが稲妻スケッチを映画化した数ヶ月後には、ブラックトンも同じことをやっていたのだ。

 これ以降、映画制作に目覚めたブラックトンは、同じくニューヨークでマジシャンとして活躍していたアルバート・E・スミスと共にバイタグラフ社という映画会社を設立する。1900年、バイタグラフ社が制作、エジソン社の配給によって『誘惑された絵(The Enchanted Drawing)』が公開された。

※3 『誘惑された絵(1900)』

この作品は、チョークトークとコマ撮りを組み合わせた物で、ブラックトンが即興で描いた絵が特殊効果により動き始めるという内容だった。1906年にブラックトンが制作した『愉快な百面相(Humorous Phases of Funny Faces)』では更に進化してアニメパートを充実させ、実写パートが大幅に削減された。

※4 『愉快な百面相(1906)』

 そして、1908年にはブラックトンから影響を受けたエミール・コールが、実写パートを完全に排除したアニメーション映画『ファンタスマゴリ』を制作する。こうして実写映画から一足遅れて、アニメーション映画の歴史も歩み始めたのだった。

 最初期の実写映画において、チャップリンといった喜劇俳優達がスター俳優となったように、アニメーション映画においても、人気キャラクターが生まれ始める。そんなアニメ映画における最初の人気キャラクターは、なんと実写と同じく、あのチャールズ・チャップリンだった。

 1913年、舞台俳優だったチャップリンは、マック・セネットにスカウトされ映画界へ入ると、すぐさまスターの仲間入りを果たす。そんなチャップリン人気にあやかり、彼が映画で度々演じていた「放浪者」のキャラクターの肖像を無断で使用したアニメーションが乱立し始めたのだった。この件は訴訟に発展し、1917年にチャップリン側が勝訴。キャラクターの権利保護をめぐる先駆的な判例の一つとなった。この裁判でチャップリンは自身のキャラのグッズやシリーズ化の権利を手にし、後に様々な映画会社がキャラクタービジネスを行う土台が形成された。

 そんなある日、自身が演じるキャラクターの肖像権を手にしたチャップリンの下に、アニメプロデューサーのパット・サリバンが訪れ、チャップリンを主人公としたアニメの制作を打診する。こうしてサリバンはチャップリン公認の下、彼のアニメーション映画を作り始める。このアニメシリーズは大ヒットを記録し、チャップリンはアニメーション映画初の人気キャラクターとなる。

※5 『Charlie on the farm(1919)』 サリバン制作のチャップリンのアニメ

 しかし、サリバンからすると、制作に一切関わらないのに、権利元のチャップリンには使用料を払い続けなければいけない負担が生じた。また、アニメ映画なら実在の人物を主役に据える必要も無いことに気づいたサリバンは、チャップリンのアニメ作品に登場した、脇役の黒い猫のキャラクターを主演に抜擢し、新しいアニメシリーズを展開することを決意する。これが現在でも有名なフィリックス・ザ・キャットで、世界で初めて人気を博したアニメオリジナルキャラクターとなった。

※6 フィリックス・ザ・キャット

ちょうどこの時期、チャップリンは長編へと移行し始め、短編喜劇映画のポジションに空きが生じ始めていたことも功を奏した。ちなみに、バスター・キートンは、自身が映画を監督するようになった際、フィリックスの動きを参考にしたそうである。映画初期においてアニメと実写は、お互いを行き来して共進化して行ったのだった。

作品の概要

 1901年、シカゴで生まれたウォルト・ディズニーの一家は、1906年にミズーリ州マーセリンの農場へと移り住むものの、父の農場経営の失敗により一家はカンザスシティへ移転を余儀なくされる。少年時代のウォルトは学校の成績は芳しくなかったが、絵を描くことと、人を楽しませることに没頭した。1914年にチャップリンが映画デビューすると、ウォルトにとってチャップリンは常に憧れの対象となり、チャップリンの物真似コンテストに出場して優勝したりもした。

第一次世界大戦後、カンザスシティに戻ったウォルトは、広告デザインの仕事を通じて、運命のパートナーとなるアブ・アイワークスと出会う。二人は意気投合し、1922年に「ラフォグラム・フィルム」を設立。こうしてウォルトはアニメーションの世界に本格的に足を踏み入れる。

彼が最初に手掛けたのは『ニューマン劇場のお笑い図案(ラフォグラム)』という短編シリーズだった。

※7 『ニューマン劇場のお笑い図案(ラフォグラム)』

作品ではウォルト本人が出演し、地元カンザスのニュースを絵に描いて説明していると、その絵が動き始めるという、実写とアニメが融合した内容だった。『ファンタスマゴリ』やフィリックス・ザ・キャットが既に成功していた当時でも、まだ実写とアニメの領域は未分化だった。ウォルトのアニメシリーズは地元の観客を喜ばせたが、経営は常に火の車だった。ウォルトは起死回生の一手として、実写の少女がアニメの世界で冒険する『アリス・コメディ』を考案する。しかし、制作費の使いすぎでスタジオはあえなく倒産。21歳のウォルトは、わずか40ドルと、未完成の『アリス』のフィルムを持ってハリウッドへと向かった。

ハリウッドでは、ウォルトの兄のロイ・ディズニーが待っていた。経営に疎かったウォルトは、元銀行員で財務に強い兄と共に、「ディズニー・ブラザーズ・スタジオ」を設立。すぐさまチャールズ・ミンツというプロデューサーが経営するウィンクラー・ピクチャーズでの配給が決まり、アリス・コメディ・シリーズは公開に漕ぎつきヒットを記録する。ウォルトはかつての右腕アイワークスを呼び寄せ、制作体制を強化していった。

※8 アリス・コメディ・シリーズ

だがアリス・コメディ・シリーズに問題が発生する。同シリーズに登場する人気キャラクター、ジュリアス・ザ・キャットがフィリックス・ザ・キャットの模倣だとして、原作者から抗議を受けたのである。また、以前は平面的な絵を動かすだけのアニメーションだったが、技術の向上と共に背景といった要素が増えると、実写パートとアニメパートを合わせる手続きが煩雑になっていった。アリス・コメディ・シリーズの人気も下火となってきたことから、実写パートを廃した完全オリジナルキャラクターによるアニメシリーズの制作を余儀なくされたのである。

1927年、こうして誕生したのが、長い耳を持つ兎のキャラクター「オズワルド・ザ・ラッキーラビット」である。

※9 オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット

シリーズ第一作の『トロリー・トラブルズ』はウィンクラー・ピクチャーズ制作、ユニバーサル・ピクチャーズ配給で公開され、実質的な制作を担っていたディズニー社は下請けにすぎなかった。同作の鉄道を用いたアクションは、前年に公開された『キートンの大列車追跡』の影響を受けていると言われている。ディズニー・スタジオは、業界のトップランナーへと躍り出たかに見えた。

しかし、1928年、ウォルトを最大の悲劇が襲う。オズワルド・シリーズのプロデューサーを務めるチャールズ・ミンツが、ウォルトのスタジオから主要なアニメーターを根こそぎ引き抜いたのだ。そしてキャラクターの権利を持つユニバーサル社と共に、ディズニー社抜きでオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットのシリーズを制作し始めたのである。ディズニーはこの出来事を教訓に、後年権利に対して慎重になっていく。

裏切りに遭ったウォルトの手元に残ったのは、兄ロイと、アイワークス、そして数人のスタッフだけだった。ニューヨークからの帰り道、絶望の淵にいたウォルトは、列車の中で一匹のネズミを描く。それがミッキーマウスのプロトタイプだった。ディズニー社の看板キャラが、人間にあまり親しみがない「ネズミ」である理由は、猫とウサギには先約があったからだった。

ハリウッドに戻った彼は、アイワークスと共に極秘裏にミッキーのデビュー作『プレーン・クレイジー』を制作するが、配給先は見つからず、ウォルト自身も作品の出来に満足が行かなかった。

そんな中、ウォルトは世界初のトーキー映画である『ジャズ・シンガー』を鑑賞する。映画に音の革命が起こることを予感したウォルトは、制作中の『蒸気船ウィリー』に、映像と音声が完璧に同期することを思いつく。現代のネット文化における「音ハメ」にも似た手法だった。制作過程では楽譜と映像のコマ数を連動させる「バー・シート」を用いることで、音と絵の完璧な同期を実現した。

1928年11月18日、ニューヨークのコロニー劇場で『蒸気船ウィリー』が初公開された。観客が驚いたのは、ミッキーマウスの口の動きと、口笛のサウンドが完璧に同期していたことだった。

※10 蒸気船ウィリー

この時、ミッキーの声と口笛を担当したのはウォルト本人だった。 なお、本作のタイトルや着想は、半年前に公開されたバスター・キートンの映画『キートンの蒸気船(原題:Steamboat Bill Jr.)』に影響を受けたものだと言われている。

その後

 その後のディズニー社はミッキーマウスとその仲間たちと共に発展した。シリーズ制作の権利を守るために手にしたキャラクターの権利だったが、やがてグッズ収益が映画興行収入を上回り、権利収入で経営が安定するようになった。現在でもディズニー社の全体の売り上げに対して、映画興行収入は二割にも満たない。

1937年、ディズニー社は世界初の長編アニメ『白雪姫』を公開するも、長編アニメには莫大な予算と労力がかかる現実を知る。1946年、制作費を削減する為に実写とアニメを融合した『南部の歌』を公開するも、その予想外の手続きの煩雑さから全編アニメ作品よりも制作費がかかってしまった。

結果的に 、晩年のウォルトはアニメーション映画への興味を失っていき、テーマパーク事業へと移っていく。1955年にカリフォルニアで開園した、ディズニーランドは現在でも娯楽の最前線であり続けている。1964年、ウォルトは集大成として『南部の歌』以来実に20年ぶりに、実写とアニメを融合した作品『メリーポピンズ』を制作する。映画の大ヒットの2年後の1966年、ウォルトはその生涯を終えた。

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